高田酒造の歴史
高田酒造場「又助」ヒストリー
日本三大急流の一つ球磨川が流れる球磨郡あさぎり町、初夏にはたくさんのホタルが飛び交い、上質な米と清冽な水に恵まれた自然豊かなこの地に【高田酒造場】はございます。
高田家の歴史は江戸時代から、かつて高田家は庄屋を営んでおり、当主には「又助」の名が与えられました。
焼酎造りが始まったのは、明治35年 9代目又助(高田官治)からです。
当時誕生した銘柄は「秋穂」、【高田酒造場】唯一の銘柄でした。
完全手作りの「秋穂」は、品質に自信はあるものの、小さな蔵の商品は置かせてもらえず、創業当時の商売は苦難に満ちたものでした。
幾多の困難に直面するも、焼酎造りに日々精進し「又助」の名と蔵は、10代目(章)、11代目(健)へと受け継がれます。
戦争という激動の時代を守り抜いた11代目(健)は、自身の病魔に侵されます。
当時、東京で働いていた健の息子・啓世(たかひろ)は、家業を守るため帰郷し、24歳で12代目「又助」を継承します。
そこから高田酒造場の新しいステージが始まります。
高田酒造場の新しいステージの始まり
酒類鑑評会にて焼酎醸造部門の主席を獲得
帰郷の翌年、昭和60年に樫樽貯蔵の焼酎作りのため樫樽を購入し、昭和63年に樫樽貯蔵「オークロード」「原酒」を発売、また「五十四萬石 旬」が、平成10年熊本国税局の酒類鑑評会にて焼酎醸造部門の主席を獲得しました。
商品名「旬」の題字は、11代目(健)の自筆で、11代目(健)が、ガン手術で入院する直前に、12代目(啓世)がお願いして書いてもらったものです。
この「旬」の文字には当時の父子それぞれの想いが込められています。
つながれていく伝統、そして改革と革新
12代目(啓世)は、アイガモ農法米や花酵母を使用した本格焼酎など、斬新なアイディアで新商品を開発し、熊本・東京の百貨店を始め、全国から取引の申し込みが入るようになります。
また、啓世の娘、恭奈(やすな)は女性ならではの目線でリキュールの開発など、新しい球磨焼酎を展開しています。
球磨川近くの小さな蔵は、時代の流れが変わろうとも「又助」の名とともに、伝統を守りながら進化し続けています。
これまでの100年から、これからの100年へ
私たち【合資会社高田酒造場】は、平成15年に創業100周年を迎えました。
焼酎への想いは途絶えることがありません。
これからも次の100年に向かって、小さい蔵だからできるこだわりの焼酎を大切に育んでいきます。